桂樹のブログ Keju's Blog

只今ゼノクロプレイ中!ゲームプレイ日記、映画や本の感想etc.

※ネタバレあり 昭和世代への壮大な心理セラピーーシンエヴァ劇場版感想

f:id:Keju:20210317204557j:plain

 

先日、シンエヴァ観てきました。
結論から言うと、特に後半がとても良かったです。
私はエヴァの熱烈なファンというわけではないけれど、
思春期に出会い、一緒に成長してこれて良かったと思う。
 
まず新鮮なうちに感想をザッとまとめました。
二回目観たらゴリゴリ修正するかも。
 
※ここら先ネタバレ注意
※前半は私自身のイタイ話なので注意
 
 

エヴァと私

・旧作版エヴァと私

 

最初にテレビアニメ版を見たのが1997年で、
私はちょうど中学生になったばかりだった。
つまりシンジ達と同世代だ。

それまで見てきたアニメは、多分まだ昭和の雰囲気を残していたんだと思う。
でもエヴァは、私の目にとても新鮮で、お洒落で、
文字を背景に使うジャケットデザインもセンス抜群に感じた。
静止シーンが続くなどの演出や、ラスト二話の展開も斬新だった。 

同年公開の劇場版2作も親に連れて行ってもらって観た。
親と一緒で、色々気まずいシーンもあったし、
最後の突き放すような終わり方にもびっくりした。

結局、内容の半分も分からなかったけど、
なんかものすごいものを見ちゃったぞと思った。
「面白い/つまらない」の枠だけでは語れない世界があるって知った。

 
旧作が放映・公開された当時の日本の空気は、すごくヒリヒリしていた。
少なくとも、当時思春期だった私にはそう感じられた。

地下鉄サリン事件があったり、大震災があったり。
酒○薔薇の事件が起きたときは、テレビは連日その話でもちきりだった。
「いま、14歳に何が起きているのか」
なんて特集が組まれて、リポーターから
「人を殺したいと思ったことがあるか」
という質問を投げかけられた道行く中高生の、
「ないわけではない(=ある)」
という答えに、
スタジオの大人たちは上から目線で大騒ぎしていた。

 

アホか。
こいつらみんな○ね、と思った。
何もわかってないくせに。
お前だって本当は殺したいと思ったことあるくせに。

 

肥大していく自己意識への恐怖と、
漠然とした不安と、
大人たちへの不信感が募っていった。

 

自他の境が溶けてしまいそうになる時、
どこかで心の癒しになってくれたのは、
「良い子の名作」よりも、
ドロドロしててグロくて訳の分からないはずのエヴァだった。
繊細で美しくて神経症的なサントラや主題歌も、何度も聴いた。

 

当時はアニメ、漫画、ゲームがまだまだ白眼視されていて、
オタクへの風当たりも厳しかった。
でも、大人達や社会がバカにしているアニメや漫画の中にこそ、
真実があると感じていた。

 

・ 母との対話

 

そして時は流れて、平成から令和になった。
アニメ、漫画、ゲームは、あれからずいぶん市民権を得た。
オープンになったし、「オタク」でなくとも誰でもゲームやアニメに触れる。

私自身も(とりあえず年齢だけは)大人になり、
漫画もゲームも気負わず楽しめるようになり、
あの頃のヒリヒリした感じはなくなった。
でも、心の中の空虚さ、肝心なものが何か欠落しているモヤモヤは常に付きまとっていた。


2018年の夏、身体が動かなくなった。
正式な診断は受けていないが、今思うと確実に鬱状態だったと思う。
記憶がけっこう飛んでいるので、詳しいことは憶えていない。

漠然とした「行きづらさ」を抱えつつ、
その原因がわからないままなんとか「大人」をやってきたつもりが、
ついに限界が来たと感じた。

 

心理学の本を読み漁り、色んなセミナーも受講した。
そして、幼少期に母との心理的な繋がりを築き損なっており、
その結果、健全な自尊心が育たず、
反抗期を通した精神的な親離れが出来ていないことが原因だと分かった。

 

子どものころ、大好きだった母からされたあれこれが、
「教育」ではなく「虐待」であったと認めるのは多大な苦痛を伴った。
衝撃→悲しみ→怒り。
その混乱を超えた先に、親と、その世代に対する「理解」があった。

 

子どもは親を無条件に愛する。
精神的に不安定だった母を、幼い私は愚かにも「守らなければ」と思いこんだ。
殴られたり、暴言を吐かれたりしたときは「私が悪いんだ」と信じた。
「テストで100点取ったら、また愛してくれる?」
そう思って何も考えず勉強した。
世間で有名と言われる大学にも進学した。
でも、虚しさは増すばかりだった。

 
そしてつい一か月ほど前(2021年2月)、
母と、幼少期にされて辛かった、怖かった、寂しかったことを話した。
その前にも何度か話していたのだが、まだ肝心な部分が伝わっていなかったからだ。
だから、母とちゃんと話したいと思った。
この数年間で学んできた、心理学やココロのことに関する知識やワークを、
ここでこそ生かすべきだと感じた。

あらかじめ用意した手紙をもとに、4時間かけて腹の内を全部ぶちまけた。
ずっと「いい子」をしてきた私が、怒鳴り、泣き叫び、
30年間ずっと抑圧していた小さな子供の声をようやく伝えきることが出来た。

自分の中の怒りや悲しみを一度思いっきり解放して、荒れて、
それからじっくり見つめることが出来たから、
「ではなぜ、親はそんなことをしてしまったのか?」
と、親を理解したいという気持ちが生まれた。

そして、母がやっと自分の言葉で話してくれた。 

昭和という時代背景。
母もまた、自分の親から同じ扱いを受けており、
結婚後も「自分は被害者だ」と思い込んでいた。
世間は怖い、だから勉強してしっかり武装しなければ。
そういうものだと思っていた。
外側の世界に怯えていた。
世界を見る前提そのものが歪んでいた。

 

 

結局、「悪役」などいなかった。
加害者と被害者という、二元論はもう終わりにしたいと思った。
だから私も母も、被害者意識を捨てて先に進もうと決めた。

 

 

 シンエヴァは、昭和世代への壮大な心理セラピー

 
そこへ来て、完結編となるシンエヴァ劇場版。
特に後半は、母との対話を通して過去に向き合えた今の自分だからこそ、
すごく納得がいく内容だったし、何度も泣いてしまった。
 
新劇場版は、「若い世代に向けてエヴァを作り直す」
というコンセプトだったそうだが、
今作完結編の後半はむしろ
「昭和世代に送る、壮大な心理セラピー」だ。
細かい設定が分からなくても、どこかに生きづらさを抱えて生きてきた人全員観た方がいいと思う。
 

・裏切りと深い喪失感

 
庵野監督は
「幸福の絶頂からの深い喪失」
を描くのがとても上手い。
 
旧作劇場版の、無双状態のアスカが量産機でボロボロになるシーン。
新劇場版の、使徒が倒されるシーン(特にラミエルなど)。
圧倒的な力を相手に見せつけていたのに、
突如優劣が入れ替わる。
 
カヲルとシンジの関係もそう。
自分に優しくしてくれる人をやっと見つけたのに、
TV版では裏切られ、Qでは二度目の喪失。
綾波とだって、やっといい関係を築けたのに、
結局リセットされてしまう。
 
親からの愛情がわからず、他者と関係を築いても壊され、
何度も喪失と絶望を体験した。
でも、その暗く長いトンネルの先で、ようやく光が見えた。
 

・子供たちが欲しかった、たった一つの言葉と対話

 
「あなたはあなたのままで、素晴らしい存在だ」
親が子どもに伝えるべき一番の言葉を、
ケンスケからプレゼントされたアスカ。
 
世間に怯えて、「弱い自分」を認められなかったゲンドウに、
「父さんのことを知りたい、話がしたい」
と、自分から歩み寄ったシンジ。
(私の母も、最初のうちは話し合いから逃げようとしました。
A.T.フィールドが発動しちゃったんでしょうね…)
 
TV版で、父親との対話が無いまま
「僕はここにいてもいいんだ」
という結論に至ったシンジ。
旧作版で、息子ときちんと対話しないまま
「済まなかったな、シンジ」
というセリフを吐くゲンドウ。
 
お互いが向き合えた今作では、同じ
「済まなかったな、シンジ」
という言葉でも、その響きや重みが全然違う。
そしてこの言葉こそ、シンジがずっと欲しかったものだ。
 
言葉の力。
たったその言葉が欲しかった、言えなかった。
たったその一言を言えるまで、言ってもらえるまで、ずいぶん遠回りをした。
そして、言う方も言った方も、すごく癒されるのだ。
 
対話の力。
「私を見て!」
ちゃんと見て欲しかった、向き合ってほしかった。
それが満たされなくて、その絶望を力に変えて、子供たちはエヴァで戦った。
彼らの絶叫は魂の叫びだ。
でも今は、ちゃんと向き合えたから、もうエヴァに乗る必要がない。
 
被害者意識で無気力だったシンジと、他者からの承認欲求が過剰なアスカ。
それでも親からの愛を求めていた。
きっと全ての子供の中に、シンジの部分とアスカの部分、両方あると思う。
親から心の栄養を与えられていれば、輝く宝石になっただろうもの。
そして二人とも、あまりにいい子すぎた。
 

エヴァの呪いー肉体の成長と、精神の成長

 
とても面白い記事を書いてらっしゃる方がいたのでシェア。

身勝手な大人たち。
でも彼らだってかつて子供だったのだ。
そして、誰もがチルドレンなのだ。
 
ミサトさんは、父の死が精神的な呪いとなっており、
親の愛情に対し混乱したまま、大人になった。
そしてゲンドウは、繊細で不器用なあまり、
他者との関わりをうまく理解できないまま父親になった。
 
シンジら子供たち=チルドレンは、肉体の成長がストップし、
ミサトやゲンドウら大人は、精神的にいまだ子供なまま。
(それでも、かれらは生きていて、時は確実に流れていく。
髪はその象徴なのかな)
 
幼少期に傷を負った子供が親を理解する前には、
怒りと悲しみで荒れ狂う時期が必要だ。
シンジもアスカも、荒れに荒れまくってたし、精神的にどん底になってた。
旧作劇場版では荒れたまま終わってた…かも。
ミサトら大人たちも、結局自分自身に向き合いきれないまま死んでいった。
 
でも、とうとうみんな、
自分を見て、相手を見て、そして前を見ることができた。
もしかしたら、監督ご自身、強い怒りや葛藤をずっと抱えてきて、
長い年月を経て今作でやっと昇華できたのかもしれない。
 
シンジもミサトも、「落とし前をつける」と言っていたが、
あれは「親の失敗の責任は子が取らないといけない」
という意味ではなく、
「親から精神的に自立すること、親を理解し可能であれば和解すること、そして前に進むこと」
ということだと思う。
 
そしてエヴァの呪い…
監督ご本人が「エヴァ」という作品の呪縛にとらわれてきたことを指すだろうし、
また、精神的に子供のまま自立できなかった大人たちの事も示唆していると思う。
逆に言えば「親や幼少期の自分自身と向き合わないと心は大人になれないよ」ということ。
だからこそ、父親と正面から会話したシンジは呪いから解放され、肉体的にも成長できた。
 
カヲルと加持の会話で「年を取ったら農作業でもどうですか(うろ覚え)」
というセリフももしかしたらそういうことなのかも。
「え、カヲルも年取るの?」って一瞬思ったけど、
カヲルもまた大人達に翻弄された子供であり、
呪いから放たれたら、人間と同じように肉体も成長するのかも。
(最後の「Neon Genesis」の世界で)
 

・まとめ

 

終盤のミサト、シンジ、アスカ、そしてゲンドウの姿に最も癒されるのは、
平成生まれの若い世代よりむしろ、昭和を生きてきた人たちだと思う。

(「母と娘」は癒着しやすいけれど(私はこのパターン)、
「父親と息子」は逆に、断絶感があったのかもしれない。
とにかく、「会話が圧倒的に足りなかった」のだ。)

そして、この作品を通して最も癒されたのは、庵野監督ご自身なのかもしれない。
もしかしたら自分の一番見たくないところに向き合って、作品として世に出すなんて、
そりゃ15年もかかりますよ……。
本当に、お疲れ様でした。


以上、自分自身の過去を振り返りながらざっと感想を書きました。
自分自身に寄せすぎかもですが、あくまで私の視点から見たシンエヴァにすぎないです。
また昭和が諸悪の根源だと言うつもりもありません。
全部、自分を構成するのに大切な事だったと今ならわかります。

 

終盤、皆と決別できたシンジが海辺に座っているシーン。
だんだん色が無くなり、ラフ画になり、絵コンテになってしまう。
そして旧作との「特異点」であるマリが落下してきて、
世界は新たな色を取り戻す。

シンジ<あなた>の認識ー世界を観る視点が変われば、新しい世界が見える。
過去に向き合えたなら、そこから新世紀が始まる。

 

エヴァンゲリオン、そして制作に携わったすべての人<チルドレン>に、
ありがとうございました。

 

2021.03.17
Keju